瓜生保とは?
国立国会図書館デジタルコレクションで「瓜生保」を検索すると、
2019年7月現在で52項目ヒットします。「判官」と無関係な本を除く50冊が
14世紀後半に書かれた歴史古典「太平記」に登場する「瓜生保」という人物
に関する書籍です。
上から順に内容をチェックしてみます。
項目2番
「偉人と母」(井上民子 著 晴文館 1910年 P57~58)。
こちらの本には「判官 瓜生保」について以下の時代、地域、出来事が書いて
あります。茶色は原文より抜粋、それ以外は大意を当サイトでまとめています。
「瓜生判官保(うりふはんぐわんたもつ)は越前杣山(えちぜんそまやま)の
城主なり」「*延元元年(えんげんがんねん 本文の萬元は誤記)中将義貞
(ちゅうしょうよしさだ)東宮(とうぐう)及び尊長親王(たかながしんのう)
を奉じて北行し金崎(かねざき)に抵(いた)り」「二人先(ま)ず杣山
(そまやま)に到(いた)る、城主保厚(あつ)くこれを侍(じ)し」
(抜粋以上)
(大意)「瓜生判官保」は越前(現在の福井県 北陸地方)の杣山城主。
西暦1336年(延元元年)に、中将義貞(左近衛中将/さこんえちゅうしょう
新田義貞/にったよしさだ)が(後醍醐天皇/ごだいごてんのうの)東宮と親王
の護衛をして金崎(かねざき 福井県)へ行ったときに、杣山城主の瓜生保が
手厚くもてなした。(以上)
項目22番目
「前賢故実 第9巻 菊池容斎(武保)1903 都文社」P135 に挿絵があります。
(国立国会図書館デジタルコレクションで検索・閲覧できます)
項目30番・31番
「敦賀」敦賀新聞社 編 山上書店 1912年版 P91~92 / 1919 年版 P107
この本には、以下が書かれています。
瓜生保(嵯峨源氏/さがげんじ)は越前の判官(はんがん/ほうがん)。
曽祖父のときに越後の瓜生村に来て「瓜生」という名字を名乗るようになった。
父の衛(まもる)のときに越前へ引っ越した。保は長男で弟が4人。弟の名前は
僧・義艦(ぎかん)、僧・源琳(げんりん)、重(しげし)、照(てらす)で、
全員が武勇で知られた。延元元年(えんげんがんねん 1336年)、後醍醐天皇の
味方として杣山(そまやま)で挙兵し、敵の足利氏方の兵を破った。だが、
翌年春に金ヶ崎城(かねがさき)の援軍に向かう途中で足利方に敗れ、大将の
里見時成(さとみときなり)、弟(義艦)と一緒に戦死した。他の3名の弟たち
は落ちのびた。(以上)
項目51番、物語大日本史(中巻 高須芳次郎 誠文堂新光社 1943年)は、
「瓜生保(と四人の弟と)は、義のために生涯苦労した」と評しています。
項目25番の贈位功臣言語録 (河野正義 編 国民書院 1916年P68~)は、
瓜生保について詳述していますが、割愛します。国立国会デジタルコレクション
から検索できます。
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以上は、掛け軸と同姓同名の「瓜生判官源保」についてです。
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時代背景
ところで、1336年には、上記の出来事に先立って九州の多々良浜(たたらはま)
(箱崎駅ー千早駅の間の川のあたり)で戦いがありました。
国立国会図書館デジタルコレクションで「多々良浜」を検索すると、2019年
7月現在で12項目がヒットします。項目3番 「菊池武時」(荒木精之 著他
淡海堂出版1944年)、項目9番 「太平記 第2巻」(大町桂月 校訂 1913年
至誠堂書店 P510~)、項目11番「福博誌」(伊東尾四郎 著 1902年
森岡書店 P89~)。以上3冊から「多々良浜の戦い」について概略を書きます。
大意:(参考:「菊池武時」)
1336年当時、九州の多々良浜(現在の福岡県福岡市)は、多々良川に沿う約50町
(50町は約5キロメートル)の干潟で、西南は松原、南は海、北は一帯の高地、
東は平野が伸びていた。
後醍醐天皇方の菊池軍は松原を背にして陣を取った。戦いが始まると北風が急に
吹いて砂塵をあげて菊池軍に吹き付けた。顏に吹き付ける砂のために菊池軍は
顔を上げることができず、その間に、風上に陣取っていた敵方の足利軍は猛烈に
矢を射かけた。菊池軍はたまらずに須濱(すのはま)というところまで退却した。
松浦軍、神田軍は菊池方であったが、その様子を見て降参して足利方に寝返った。
多々良浜の戦いでは、最終的に足利方が勝った。(以上)
大意:(参考:「太平記 第2巻」)
足利方の味方は約300余騎(P511 後ろから4行目)、天皇方は約3万余騎(P512
前から2行目)。絶望した足利尊氏(あしかがたかうじ)が自殺をしたいと
ほのめかすのを、弟の左馬頭(さまのかみ)直義(ただよし)が「その前に
一度戦ってみます」と言って、兄を後陣に控えさせて香椎宮を出陣した。
社(やしろ)の前を過ぎるときに一羽のカラスが杉の枝をくわえて兜(かぶと)
に落としたので、良いことがあると考えて左側の袖にさした。戦う頃合いを
見計らっていると、誰が射たか分からないが、味方の白羽の鏑(かぶら)矢が
一本、敵の頭上を越えて飛んで行き、足利方は「これは良いことがありそうだ」
と勇気づけられた。
足利軍は少ない人数だが勇敢に戦い、5000余騎だった菊池軍は3000余騎となって
20余町(2キロ余)ほど後退した。それを見て敵(足利軍)の後方から攻める予定
だった松浦軍と神田軍(菊池軍の味方)は、戦わないで降参をした。(P512~3)
最終的に菊池(後醍醐天皇方)が負けた。この勝負の原因は菊池軍の落ち度でも、
足利直義(尊氏の弟)の謀(はかりごと)でもなく天運であった。(P514)(以上)
大意:(参考:「福博誌」)
多々良川(たたらがわ)がそそぐ海辺を多々良浜と言う。山から流れ出て、
篠栗(ささぐり)で西へ流れ、久原川(くばるがわ)、猪野川(いのがわ)と
合流して名島(なじま)で海へそそぐ。(P89) この浜は足利尊氏が(京都で
負けて)西へ逃げたときに菊池氏(後醍醐天皇方)と戦った場所である。
「太平記」には「多々良浜合戦」の章がある。足利尊氏が九州まで逃げたとき
のことは「梅松論(ばいしょうろん)」に詳しく書いてある。(以上)
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現代では、1330年代の人々の行動は理性で分析できない部分があります。風、
鏑矢(かぶらや)、カラスが落とした杉の枝が吉凶を占う道具として登場して
います。突風による砂塵に神や菩薩(ぼさつ)の威光を感じ、敵方に寝返るこ
とも不自然ではなかったのでしょう。
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多々良浜の戦いの結果として越前(福井県)に波及した事件を書きます。
力をつけて北上する足利軍を恐れ、新田義貞(にったよしさだ)は後醍醐天皇の
二人の皇子を守り、越前(福井県敦賀市)の金ヶ崎城へ避難しました。瓜生保は、
新田方の援護を担当した人物です。一時期、「足利尊氏」「新田義貞(後醍醐
天皇方)」で、どちらにつくべきか混乱しましたが、結局は足利方を離反し、
新田方(後醍醐天皇の味方)に帰参して1337年に戦死しています。
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写真の「画」は右手の親指と薬指で輪をつくり、左手は甲をこちらにして
両手を軽く交差させています。瓔珞(ようらく:首かざり)と頭部の飾り
だけで、ほかには仏具も台座もなく立っています。
「経」が般若心経(はんにゃしんぎょう)なので、「画」は観自在菩薩(かんじ
ざいぼさつ=観音菩薩 かんのんぼさつ)でしょうか。
制作年月日は、「壬午夏日(じんごなつび)」とあります。
制作者については太平記に登場する「瓜生判官源保」なのか、全くの他人か、
または生き延びた弟たちの子孫の誰かが○○代目「瓜生判官源保」を名乗った
ものか、それはこの書画が書かれた質の良い「紙」の名前とともに謎です。
太平記には、書写山行幸で後醍醐天皇が杉原(すいばら)紙を使用し、
また筑紫から京へ戻る足利尊氏が観世音菩薩の夢を見て、杉原(すいばら)
紙に経と絵をかく記載があります。杉原紙(すいばらし)は、播磨国/兵庫県
多可郡(たかぐん)杉原(すいばら)を産地とする上質紙です。
万が一、福岡の雑貨屋で見つけたこの「瓜生判官源保/不倒」が太平記の人物
であれば、上質な紙で知られる「越前」の杣山(そまやま)城主は、どこの
紙を使用したのでしょう。
想像をめぐらすと過去の水音が聞こえそうです。
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壬午夏日 不倒謹書
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