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エピローグ


物語の始まりで、2002年冬にアメリカ人の絵葉書コレクターと出会い、

二人三脚のリサーチが始まったところまで書きました。


その後は、皆様のお力添えにより物事が進み、10年前(2014年)の初夏

に絵はがき差出人の故郷で展示会を開くことができました。


展示資料の内容は(サイト管理者に可能な範囲で)海外にもご紹介。

イギリスの大英博物館JAPANコーナーから「日本にとって面白い資料と

担当者が言っています」というお返事を2014年8月に頂きました。


絵はがき差出人について

絵はがき差出人についてわかったことを書きます。

以下、箇条書きにします。


① 1874(明治7)年に巨勢村(こせむら 佐賀県)の農家に生まれる。

② 旧制(佐賀)中学で最優秀の成績をおさめる。

③ 藩主の奨学金で旧制五高(現在の熊本大学)進学。成績優秀者の組に在席。

  (英語講師:ラフカディオハーン)

④ 藩主の奨学金で東京帝国大学(法科)入学。

⑤ 翌年に法科をやめて国史科へ入学。

⑥ 1898(明治31)年、大学卒業と同時に内閣総理大臣秘書室勤務(首相は

  佐賀出身の大隈重信。)

⑦ 大隈内閣(第一次)が短命に終わると大学院入学。(本邦官制の沿革に

  ついて研究。)

⑧ 旧制学習院(宮内省直轄の官立学校)の嘱託を経て正規の教員になる。

  1907(明治40)年から学習院長は乃木希典 / のぎまれすけ 山口県出身)

⑨ 自宅(旧制学習院の敷地内)に華族や武士の子弟(鍋島氏の次男三男、

  石川氏 他)が寄宿。絵はがき差出人の家族と生活を共にする。

⑩ 旧制学習院第6寮長を兼任。

⑪ 1910-1912年 元教え子の子爵(石川成秀 旧伊勢亀山藩=三重県)

  の留学に付き添う形で世界教育視察を行う。帰国後は三重・群馬・山口

  の師範学校(現在の三重大学・群馬大学・山口大学の前身)の学校長

  を歴任する。

⑫ 1943年9月に生まれ故郷(佐賀市)で逝去。69歳没。


絵はがき差出人の人物像

上の①~⑫をもとに取材してわかったこと。

絵はがき差出人は旧佐賀藩主(鍋島直大 なべしま なおひろ)の信任を得て

若き日(30代前半)に鍋島公の次男・三男を旧制学習院の敷地内にあった

(絵はがき差出人の)自宅に寄宿生として預かりました。寄宿生にはほかに

華族の石川兄弟、武家の板倉氏などがいて家族ぐるみの交流をしたようです。


学習院長宿舎も旧制学習院の敷地内にあったので、1907年1月に乃木学習院

長が赴任した後は、朝、学習院内を点検する乃木希典(のぎまれすけ)学習

院長の歩く気配で目覚める環境だったようです。


1910年‐1912年

さて、絵はがき差出人が海外教育視察に出発した年(1910年)の前後には、

大きな出来事がありました。例えば、伊藤博文の暗殺事件(1909年)、

韓国併合(1910年)、佐賀旧藩主の孫娘(梨本宮の第一王女子)が大韓帝国

最後の皇太子と婚約(1916年)など。


また、絵はがき差出人が帰国した1912年には明治天皇の崩御、当時の学習

院長 乃木希典(のぎ まれすけ)の殉死(じゅんし)という出来事も。


森鴎外

絵はがき差出人が帰国した1912年の出来事について。

学習院長が殉死し、大きく報道される事件が起きたとき、絵はがき差出人は

学習院に籍を置いていました。状況をどの程度見聞したのかは わかりません。

それぞれの出来事に考察があったと思いますが資料は残っていません。


一方で、乃木希典学習院長と面識があった小説家の森鴎外(もりおうがい)は

学習院長(乃木希典/のぎまれすけ)の殉死のニュースに衝撃を受けて、短期間

で一つの作品を描きました。


興津弥五右衛門の遺書(おきつ やごえもん の いしょ)             

それが「興津弥五右衛門の遺書(1912年)」という短編小説です。

あらすじ

簡単なあらすじを下に書きます。

興津弥五右衛門(おきつ やごえもん)は熊本の細川家の家臣。

主君の命令により同僚と二人で長崎に香木(こうぼく)を買いに行くが、香木

の部位(本木/もとき=根本 末木/うらき=枝)のどこを買うかで同僚と意見

が合わずに斬り合いになり、その結果として同僚の命が失われる。弥五右衛門

は主君の大切な家臣を自分が斬ってしまったことで切腹を願う。しかし、主君

の許可が得られずに生き続け、主君が亡くなった後に切腹。その経緯を遺書と

いう形にした物語。


日露戦争(1904‐1905年)のときに自分の指揮下にいた多数の兵士(大日本帝

国の兵士たち)が死に、責任を重く受け止めて、自分自身を責めるを晩年を送っ

たという乃木希典学習院長。その生涯に対する森鴎外の考え方を歴史小説の体裁

で表現したと言われる作品です。


興津家 隠居某(おきつけ いんきょ なにがし)の手紙

鴎外の作品は江戸時代の「翁草(おきなぐさ)」という随筆第六巻の「細川家

の香木」に着想を得ているそう。サイト管理者は以前に図書館で江戸時代の資

料中に、倒幕につながる象徴的な事件の目撃者の手紙を見たことがありました。

「興津家隠居 (おきつけいんきょ)某(なにがし)の手紙」。こちらは杵築藩

松平家の家臣。細川家の家臣と松平家の家臣はどのような関係かと考えて、詳し

い知り合いに尋ねてみました。


「鴎外(おうがい)の作品に描かれている興津弥五右衛門(おきつやごえもん)

は、桜田門外の変の目撃者である杵築藩の興津家と関係がありますか?」


鴎外の小説に登場する細川家の家臣は剣術に優れている様子。一方で杵築藩の

松平家は寛延元年(江戸時代)に京都の北野天満宮でおこなわれた兵法(へいほう

=剣術)の御前試合で興津という優勝者を出しました。


回答の概要を書きます

「杵築の興津家は【幸】という文字を代々の跡取りは継ぎます。小説に登場する

弥五右衛門の家系図には【景】とあるので別の家系です。もちろん、時代を遡れ

ば一つにつながるのでしょう。熊本の知り合いに【景】が付く興津さんがいるの

で、今度、尋ねてあげましょう」

知人は間もなく亡くなり最後の手紙になりました。


1860年の雛祭り

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年の旧暦3月3日の事件です。

新暦では1860年3月24日。場所は東京都千代田区霞が関のあたりにあった豊後

(ぶんご)杵築藩(きつき はん=大分県 松平家)の上屋敷(かみやしき)前。

この事件は日本の開国の問題を含んでいました。


日本の開港と貿易

江戸幕府の大老(将軍の補佐役)が桜田門外で暗殺された理由の一つが

日米修好通商条約(にちべいしゅうこう つうしょうじょうやく 1858年)。

これは日本とアメリカの貿易や開港についての条約。第121代(孝明)天皇は

条約に反対の立場で、幕府が天皇の許可を得ずに条約を結んだことが桜田門外

の変の理由の一つだそうです。暗殺された大老は将軍に次ぐ最高職の人物で、

日本にとって初めてとなる自由貿易の条約締結担当者でした。


その後の影響

江戸幕府の大老が暗殺されたことで、幕府は威信(いしん=世論の信用)を失い、

結果として倒幕運動が起き明治維新へ向かったようです。鴎外の小説の興津弥五

右衛門(おきつやごえもん)が明治の終わりの乃木希典の殉死を象徴し、一方で

杵築藩の興津家が江戸幕府の終わりにつながる暗殺事件を目撃したのは、偶然の

一致なのでしょう。


海を渡った人々

時(とき)は移り変わり明治に。欧風化が進み多くの人々が海を渡る時代に

なりました。当時の日本の渡航記録は和紙に筆。渡航記録に記載されなかった

人々もいれば、その後の戦争で失われた資料も多いそう。絵はがき差出人は、

日本の公式渡航記録から遺漏(いろう)した人々の一人のようです。

ニューヨーク港(アメリカ)には明治末に海を渡った絵はがき差出人と子爵の

記録があります。二人がニューヨークに入港した客船(蒸気船)の名称・二人

の年齢・所属・身長ほか詳しい記載内容を10数年前にインターネットで確認し

ました。

アメリカ人絵はがきコレクターのCさんによれば、ニューヨーク港は過去の旅人

についての多くの物語を秘めているようです。


1912年の3月

1860年の桜田門外の変から約50年後の1912年3月16日。

絵はがき差出人と子爵(石川成秀)を乗せた客船(蒸気船の春洋丸/しゅん

ようまる)が横浜港へ入港。ヨーロッパほぼ全土と北アメリカを横断する

18か月にわたる汽車と馬車に揺られる世界教育視察の旅が終わりました。

横浜の港には、紋付を着た妻と身なりを整えた子供たちが、ほかの大勢の

人々と待ちわびていました。絵はがき差出人が家族の姿を目にした瞬間を

心に思い描くと、言葉につくせない幸せな気分が胸に迫ります。

美しく幸せな3月だったのではないでしょうか。


エピローグ 完     絵はがき差出人について:写真資料

                        詳 細

ご訪問をありがとうございました。


追伸:誤認やミス、引用先の不記載などがあると思います。お気づきの場合は

ご容赦の上、お差し支えなければサイト管理者へご教示いただけますと幸いです。

平素のご教示とご協力に感謝申し上げつつ。


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