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真崎誠について



時代背景

真崎誠は、1874年(明治7年)に佐賀県の農家の長男に生まれました。
生まれる2年前(1872年9月4日)に、近代的学校制度を定めた日本で最初の
教育法令「学制」が発布されました。

「学制」発布の年である1872年には、それまで国内で使用されていた天保暦
(太陰太陽暦)を廃止して、先進諸国にならいグレゴリオ暦(太陽暦)を採用
する予告が出されました。旧暦明治5年12月3日が、新暦(グレゴリオ暦)
明治6年1月1日に改められました。

真崎誠(1874年生)は、新暦のもとで始まった近代的学校制度による教育を
「学ぶ側」と「教える側」で体験した第一世代の人物と言えます。


中学進学   
  
  
日本の近代的学校制度は、まず小学校を作って様子を見て、それから中学
そして高校というように、段階的に、実情を考慮しながら整えられていきました。

学校教育の黎明期には華族・士族・平民の階級の差による影響は、まだ残ってい
ました。農民の家庭では尋常小学校の四年間で基本的な読み書きを学習し、尋常
小学校を卒業したら長男は農家を継ぎ、次男三男以下は出稼ぎに行くのが 一般的
だったようです。農民で高等小学校へ進学する者は少数でした。

誠は生家が豊かな農家で高等小学校へ進学しています。卒業後は農家の長男の例
にもれず家業を継ぐ予定でしたが、学業がきわめて優秀であったため、先生が熱
心に周囲へ働きかけて中学進学が実現しました。


鍋島直大の奨学金

誠は尋常小学校・高等小学校、中学校までは地元の佐賀県で学び、熊本県の高等中学
校(第五高等学校/熊本大学の前身)へと進学します。旧制佐賀中学校では最優等の
成績をおさめ、 旧佐賀藩主である鍋島直大(なべしまなおひろ)の奨学金を獲得し
ています。高等中学校(法科)の入学試験では優秀な成績をおさめ、成績上位者
の学級に在籍しました。


熊本高等中学(第五高等学校、熊本大学の前身)

誠は農家の出身で「平民」ですが、高等中学校入学当時の身分は「士族」です。
真崎照郷(まさきてるさと: 明治から大正の佐賀の発明家。製麺機の発明で知られる)
が戸籍上の養父でした。養子縁組は一時的で、のちに再び「平民」に戻っています。

誠が在籍した当時、ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)が英語教師と
して熊本高等中学で教鞭をとっています。誠はハーンの授業を受けたと考えられます。
外国人講師は優秀な学級を優先的に受け持ちました。誠は明治27年(1894年)に
卒業、同年にハーンも熊本を去っています。誠は再び鍋島直大の奨学金を得て
帝国大学へ進学します

熊本高等中学校は同年(明治27)に学校名称が変わり、第五高等学校(五高)と改め
られました
。なお、誠の卒業後に、ラフカディオ・ハーンの後任として赴任した英語
講師は夏目漱石です。



東京帝国大学

当時は帝国大学が東京に一校だけでしたので、帝国大学といえば東京にある大学
のことでした。明治元年に江戸が東京になり、東京が日本の中枢になると、学習院
の母体は京都から東京に移動しました。移転後の膨大な資料を引き継いで1897年
に京都に大学(京都帝国大学)が設置されたことによって、東京の大学は名称が
「東京帝国大学」となりました。

誠は帝国大学文科「法科」に入学し、翌年に「国史科」へ入りなおしています。


第一次・大隈重信内閣

誠は大学卒業と同時に第一次・大隈重信内閣の総理大臣秘書室に勤務しました。

明治31(1898)年6月に大隈重信を総理大臣として、日本初の「政党内閣」が
発足しました。大隈重信は「薩長藩閥以外」で総理大臣になった最初の人物です。
ところが四か月後の11月に、大隈重信内閣は総辞職しました。

職場を失った誠は大学院に入り、日本の官制の歴史を研究しました。
その後は教育者の道を歩きます。


官制学習院・教授時代 

中学校(東京)などで嘱託として教えた後に、官制学習院の嘱託勤務をへて
官制学習院教授になりました。


世界教育視察

1910年の9月、誠は兼任していた寮長(学習院第六寮)を辞任して、(元)教え子の
石川成秀(子爵)の洋行に随行する形でヨーロッパほぼ全土と北アメリカの
主要都市をめぐる「世界教育視察」に出発しています。

馬車と汽車と汽船による18か月の旅でした。一等客船を利用しており、
当時としてはとても豪華な旅だったようです。

1910年秋に北野丸(三菱長崎造船所が建造)で神戸港からマルセイユ港(フランス)
へ行き、1912年早春には、サンフランシスコ港(北アメリカ)から春洋丸
(三菱長崎造船所が建造)で横浜港へ戻っています。


石川成秀(子爵)

洋行で行動を共にした石川成秀は勢州亀山藩(三重県)の子爵です。勢州亀山藩と
縁が深い石川家・板倉家の子息が、明治38年の頃に鍋島直大公の次男・三男と
ともに、誠の自宅に寄宿し、学習院へ通った写真史料が残っています。

帰国後の出来事

帰国した年の夏に明治天皇が崩御され、当時の学習院長・乃木希典(陸軍大尉)
と静子夫妻が9月半ばに自殺します。誠は大正2年まで学習院教授として勤めま
した。事件を詳しく見聞したのではないでしょうか。


学習院教授という職階

誠が在職中の学習院は官立で、初等科、中等科、高等科で構成されていました。
「教授」は研究・教育職階の最高位ですが、眞崎誠は今日イメージするところの
学習院(大学)教授ではありません。官制学習院高等科を母体に私立大学の学習院
が設置されたのは1949年で、誠が学習院を去ってから36年後です。

誠は1913年(大正2年)に官制学習院を辞任し、三重県、群馬県、山口県の
師範学校学長を歴任します。多くの教育者の育成に尽力しました。

誠は第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)9月に郷里の佐賀で亡くなりました。


真崎誠の絵はがき


カラーフィルムが流通する以前には、白黒写真に職人が手彩色で色を付けた絵はがき
が売られていました。

1910年から1912年の18か月間に、誠は世界各地で多くの絵はがきを買いました。
絵はがきは子息から孫へと伝わり、三代目の保管者が亡くなったときに偶発的な
事情から業者に流出し、オークションを経て一部が売りに出されました。当サイトは、
その絵はがきを見つけて購入しました。

絵はがきを調べていく過程で、親族の方々や北米のコレクターからご教示をいただき、
100年前の世界教育視察の輪郭が分かりました。

絵はがきの内訳は、通信文を持つものが約150枚と、未使用の絵はがきが1500枚強です。
ご親族が約100枚、北米のコレクターが約1500枚、当サイトが62枚を所有しています。
近代の教育者による世界教育視察の資料として、散逸が惜しまれます。

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近年の概況


2014年度・文化庁「文化力」九州・沖縄・山口部門参加事業として
真崎誠の故郷(佐賀市)で「100年前の世界旅行・想いはいつも温かい」と題する
絵はがき史料展示会を主催・実施しました。

福岡市財団法人アクロスでの初回展示(2003年)から10年経ち、パネス資料の経年
劣化がありましたが、公益財団法人鍋島報效会の助成で改善できました。

皆様のご教示とご助力に心より感謝申し上げます。


海外への展示資料のご紹介

真崎誠が100年前の世界教育視察で訪れた土地へ資料をご紹介しています。


時間の博物館

常設展示場を所有しない、インターネット上の私設資料室です。
古書店や雑貨屋で見つけた文字史料から、散逸が惜しまれる史料を
ピックアップします。

当サイト記事の誤認・誤記にお気づきの場合はご連絡ください。
その際、お手数ですが参考文献名のご教示をいただけますと幸いです。

行き届かない点が多々ありますことをお許しください。
皆様に末永く育てていただけますと幸いです。


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21世紀の世界の街角(フランス・ポーランド・イギリス)撮影:工房くらし月
当サイトは絵はがきを追う旅をしています。

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