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安永蕗子の書 「茅花」

茅花(ツバナ/チガヤ)は、イネ科の多年草です。

若い穂は食べられ、母乳に似た甘みがあると言われます。

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書の作者・安永蕗子(やすながふきこ 熊本県出身)の母(春子さん)は

福岡県の東公園で生まれ育ちました。


「福岡県案内」(入江政憲 等編 修文館 1902年) P46~47 には、20世紀

初頭の東公園は、東端石堂橋(どうだんいしどうばし)から数キロに渡って続く

千代の松原(別名 十里松原/じゅうりまつばら)の中央にあったと書かれて

います。閑静な別天地で、春の花、夏の涼、秋の月、冬の雪を楽しむ散策に

最適だったそうです。明治10年ごろに公園になり、所々に茶店(さてん)が

あり、和洋料理を提供する一方亭(いっぽうてい)があり、
皆松館(かいしょ

うかん)
という席貸し(せきがし)が一軒だけあったと記載されています。


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福岡市「東公園」とは:


作品「乳母車」に見る「東公園」

「安永蕗子」(1920-2012)のエッセイ集「みずあかりの記(新評論)」

作品「乳母車」から、母(春子:1899年/明治32年~1966年/昭和41年)

と福岡市東公園に関する記載を以下に引用します。



「福岡市近郊の東公園の中に母の育った家があり、公園の松原を庭のように

親しんだ母には自分のものと決めた一本の松の木があった。学校から帰ると

必ずその松にのぼって遊んだという。仲間の子供達にも、それぞれ愛用の

松の木があって、夕食までのひとときを、それぞれの松の木に腰うちかけて

楽しかったという話が、如実に母の姿に重なった。」
(以上)

(「乳母車」P48 4行~7行 原文縦書き)    



作品「朱泥」に見る「東公園」

同エッセイ中の作品「朱泥」P260~261に、終戦当時の熊本の生活とともに、

日露戦争(1904~5年)当時の福岡市東公園の記載があるので、該当部分を

引用します。


「福岡市東公園の貸席亭の娘に生まれた母は、『今、お店を復興しなければ

遅れますよ』と、うるさく父に迫った。明治三十七、八年、日露戦争に勝利を

おさめたあとの日本に、しばしの好景気が到来したことを、母は身をもって

知っていた。明治三十二年の生まれであるから、五、六歳の頃であったはずだ。

勝った、勝った、の祝いがつづいて、席亭はどこも大繁盛であった。母たち

小さな子供たちは、そんなさわぎをよこ目に見ながら、別なうま味をあじわって

いた。

東公園は砂地黒松の林である。白い砂をほりかえすと、一銭や二銭の銅貨が

ぽろぽろと出て来た。戦争でもうかった連中が、俄か大尽(注・*にわかだいじん)

をきどって、お金を芸者衆にばらまいた名残であった。

勝った戦争と負けた戦争のちがいは大きいが、戦後にかわりはない。商売を

するなら今だ、とくりかえす母には、私の思いもかけぬしたたかさが見えた。

そうした母に必要なものは、具体的に店を建てる材木と、父のやる気、であった。」

(作品「朱泥」P260~261 原文縦書き 注*は当サイト)

「みずあかりの記(新評論)」引用 以上。

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「福岡県案内(1902年出版)」には「席貸しは一軒だけ」とあり、作品「朱泥」

に母(春子)は明治32年に福岡市東公園の貸席亭の娘に生まれたと明記されて

いるので、東公園の「席貸し 皆松館(かいしょうかん)」は蕗子の祖父母が運

営していたと結論したいところです。

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安永蕗子のエッセイ「朱泥」には、日露戦争(1904-1905)のころには、

「席
はどこも大繁盛」と書かれています。「席亭(せきてい)」は落語

や講談を聞かせる常設演芸場なのか「貸席亭」を略した言葉なのか、その

あたりが当サイトではわかりません。


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福岡県立図書館(郷土資料室)の「福岡県経営東公園西公園大濠公園改良計画」

(1925/大正14年)に「東公園 改良の大方針」として東公園地区の林相が将来、

急速に衰えると予想されるために大改造を行う計画が書かれています。詳細として、

「公園の近くを鉄道線路が通り、多数の工場が建設され、人工物が増え、しだい

に景観が損なわれていったこと。公園内の松も老衰し、全体の廃滅が幾何級数的

速度で進行する現況であること。箱崎一帯が千代の松原の名勝地であった事実を

保存し、福岡繁栄の原動力とするために、新千代の松原候補地を西戸崎方面に

造ること。東公園の改良と合わせ西の施設を整備して、一大県立公園を造ること。」

などが挙げられています。(著者:本田靜六、永見健一 ページ番号なし)


「福岡県案内(1902年出版)」「みずあかりの記」と上記の報告・計画書を

考え合わせると、東公園は賑やかになるとともに、環境が汚染されたようです。


「東公園」の移り変わりについて

1910年(明治43年)に東公園には洋風劇場「博多座」が建ち、同年に「水族館」、

1911年には近くの箱崎地区に九州帝国大学も置かれ、1933年(昭和8年)に

は福岡市動植物園(参考:動物園前史) が設置されました。現在は東公園の近く

に九大医学部がありますが、それ以外は移転しています。


福岡市は第二次世界大戦中の1945年6月19日深夜(23時から約2時間)の空襲

で、博多・天神、博多湾岸を中心に爆撃を受け(wikipedia「福岡大空襲」)

人命や家屋に多大な被害がありました。東公園そばの崇福寺の伽藍をはじめ、

文化財、国宝、書籍史料、また複数の学校が焼失しました。


蕗子の母(春子さん:1899年/明治32年~1966年/昭和41年)が子どもだった

頃の建造物は、その時々の事情で姿を消していきました。

令和元年の今、公園周辺には県庁、県警本部、税務署などの地方行政機関が置

かれています。

東公園内には散策路やベンチが整備され、憩いを提供しています。歴史を伝える

モニュメントや石碑が公園内には見られます。

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安永蕗子はエッセイ「みずあかりの記」のあとがきにこう書いています。

(茶色部分:引用)


「短歌を書きながら、一首がまとまる片方で、ふと、とある風景にぼんやりと

見入ってしまう時がある。一首の歌の背景であったり、全く別な風景であったり

するが、風景はいつも何気ない所で細密な部分をもっており、そうした部分の

再現を思ったりしながら、思わず時間をつぶしてしまうことがある。」(引用以上)


歌人が思い描いた背景を空想するのは鑑賞者に許された楽しみです。「文字」

も同様ではないでしょうか。当サイトでは「茅花(ツバナ)」から蕗子の母

(春子さん)を連想し、春子さんが生まれた福岡市東公園を連想しました。

書「茅花(ツバナ)」から母(春子さん)を連想した理由は、茅花(ツバナ

/チガヤ)の穂が白いからです。

安永蕗子はエッセイ「みずあかりの記」で、黒・赤・白などの色彩を象徴的

に用いて思い出を描写しています。白は幼年時代の思い出を語る場面で用い

られています。たとえば、熊本第五高等学校(熊本大学の前身)で行われた

運動会に参加した母(春子さん)が、白いパラソルを放り投げて走る場面です。

また、2011年に91歳となった安永蕗子氏が宮中歌会始に召人として招かれた

ときの短歌:

山茶花(さざんか)の白を愛した母思(も)へば葉と葉のあひのつぼみ豊けし

にも白が登場しています。


福岡にお越しの際は東公園を散策し、100年前に想いを馳せてごらんください。


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なお、書の「茅花」はクサカンムリが表具に隠れ、文字切れです。



文責:「時間の博物館」事務局 工房くらし月

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