後添(のちぞい)の ことゝもさせぬ大家内 (おおがない)
うかれ話の くどい櫛売(くしうり)
(原文:後添乃ことゝもさせぬ大家内 う可れ者なし能 くどい櫛売))
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AIによる校正・推敲の例 (副題:AI/Copilotと沈黙)
実施日:2024年 8月18日 - 9月21日
内 容: 1847年 俳諧連歌「常夏草」
課 題: 八作目 に 試訳(英語)をつける
回答したAI: Copilot
(Microsoftによって提供されているOpenAIのGPT-4を用いた生成AIサービス)
サイト内リンク:
① 八作目の英語試訳の進捗 ② AI 沈黙を愛すか
③ あとがき
(注①:「下線・太字・色違い」はサイト管理者による)
(注②:AIが、日本語による質問に英語で回答した場合は、
パソコンの翻訳機能を利用し、日本語に改めて掲載しました。)
(スタート)
八作目の英語試訳の進捗
質問 ① サイト管理者
サイト管理者の質問
8番目の作品の推敲をしようと思います。
後添(のちぞい)のことゝもさせぬ大家内(おおがない)
うかればなしのくどい櫛売(くしうり)
(継室/後添い が静かに暮らす大家族の屋敷。浮かれ話がくどい行商の櫛売り。)
の推敲案として、
The second wife spends a quiet life in the large mansion with a big family;
while the traveling comb seller relentlessly spreads gossip.
は適切ですか?
|
・・・と質問したいところですが、
9月20日現在、AI(Copilot) が応答しません。
・・・
応答システムに何らかの変更があったのかもしれません。
また遊びに現れる日を楽しみに、8作目の推敲は保留。
今回は、一人で作品の背景を考えてみます。
AI 沈黙を愛すか
サイト管理者 (9月21日)
まず、行商人の櫛売り(くしうり)のつもりで、作品内の言葉について
次のように考えてみました。
(1)「大家内(おおがない/おおやない)」の可能性が高い裕福な屋敷
=くど(調理場の土間)で使用人に声をかけ、日用雑貨や小間物を売りさばく
目的にかなう場所を心に思い描く。
(2)作品に登場する「後添(のちぞい)」の可能性が考えられる人物を
心に思い描く。
次はサイト管理者が心に思い描いた空想例です:
(1)藩主の前田家の屋敷。(理由:使用人が多く、流行に敏感だと思われる。)
(2)鷹司隆子(たかつかさ たかこ 1787-1870)。 別名:凪姫(なぎひめ)
(理由:11代加賀藩主の正室で継室/後添。「凪(なぎ)」は「心穏やかで静か」
という意味。)
詳細:
上の(1)(2)を思い描く時点で、ウィキペディアを参照しました。
段階を下に書きます。下線部はウィキペディアを参照しています。
8番目の作品は、「後添(のちぞい)の こと ゝもさせぬ」と始まります。
凪姫(なぎひめ)の前に11代加賀藩主(斉広:なりなが)に輿入れ(こしいれ)
し、離縁した正室(妻)は「琴姫(ことひめ)」。「琴姫(ことひめ)」は
作品中の「ことゝも」の部分に呼応します。「琴姫」が離縁した後に正室となっ
た「凪姫(なぎひめ)」は、後添(のちぞい:継室)です。「凪(なぎ)」は
「心穏やかで静か」という意味なので「後添(のちぞい)のことゝもさせぬ」
に対応しているように見えます。
加賀藩11代藩主(前田斉広:まえだなりなが)の正室で、継室でもあった凪姫
(なぎひめ)は、夫の斉広(なりなが 1782-1824)が1824年に亡くなると
落飾(らくしょく)し、眞龍院(しんりゅういん)と称しました。高貴な女性が
髪を剃り落して仏門に入り静かに暮らしている様子が、連歌作者には「ことゝも
させぬ」暮らしぶりとして印象深く、一方で言葉遊びのアイデアにつながったの
かもしれません。
以上の連想から、俳諧連歌「常夏草」8番目の作品は「凪姫」(なぎひめ)と
「琴姫」(ことひめ)を言葉遊びで暗示した作品ではないかと考えます。
作品の背景:
1847年頃(江戸時代)には、参勤交代の制度がありました。
ウィキペディアに次のように書かれています。『(引用):諸大名は一年おきに
江戸と自分の領地を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも正室と
世継ぎは江戸に常住しなければならなかった。側室および世継ぎ以外の子には
そのような義務はなかった。
ただし、当主の交替などの特殊の事情があるときには大名の妻子が一時的に帰国
を許されたなどの例外もあり、また夫を喪(うしな)って後家(ごけ)となっ
た正室には帰国が容認されているケースも見られる 。』(引用以上)
前田家は外様大名です。妻(正室)は江戸の上屋敷に住み、夫は参勤交代の
制度により国元の金沢と江戸の上屋敷を往復する必要がありました。
*加賀藩11代藩主(斉広/なりなが)は事情で金沢で暮らす年月が永く、正室(継室)
の凪姫(なぎひめ)は江戸の前田家の上屋敷で生活をしました。
1807年の凪姫(なぎひめ)輿入れから、斉広(なりなが)との死別(1824年)
までの18年間で、夫婦が一緒に暮らした年月は実質3年弱とのことです。
凪姫(なぎひめ)は1838年に幕府から亡夫の故郷へ帰国する許可を得、
後半生を金沢で暮らしました。凪姫が隠居(いんきょ)して暮らした「成巽殿」
(せいそんでん: 建築 1863年)が「成巽閣(せいそんかく)として残って
いるそうです。
なお、1847年には加賀の藩主は斉広(なりなが)の嫡男(*斉泰:なりやす)で、
正室は溶姫(ようひめ 1813-1868)です。
(参考:ウィキペディア「前田斉広」「鷹司隆子」「前田斉泰」「参勤交代」)
(注: *加賀藩11代藩主(斉広/なりなが)= 加賀 前田家*12代)
(注:*加賀藩12代藩主(斉泰/なりやす)= 加賀 前田家*13代)
あとがき
凪姫(なぎひめ)の輿入れ(こしいれ)から間もない1808年に金沢では
大火災があり、城下は大きな被害を受けました。斉広(なりなが)は参勤交代
を免除され、妻を江戸に残したまま、復旧のために金沢に3年留まりました。
作品中の「大家内(おおがない)」は「たい かない」とも読め、「大火無い
=大過無い(たいかない)」に通じます。
1847年頃、仏門に入った眞龍院(凪姫)が夫の生地で地元の平穏を祈る一方で、
連歌作者も また無災害への願いを込めたのではないでしょうか。
藩内に大過はなく、行商人の櫛売りが使用人を相手に台所(くど)のあたりで、
各地のゴシップを賑(にぎ)やかに披露する様子が、心に浮かぶ作品です。
つづく
文責 : 時間の博物館 事務局 工房くらし月
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ご訪問をありがとうございました。
追伸:誤認やミス、引用先の不記載などがあると思います。お気づきの場合は
ご容赦の上、お差し支えなければサイト管理者へご教示いただけますと幸いです。
平素のご教示とご協力に感謝申し上げつつ。
工房くらし月
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